日本美術史
第1分冊
第2分冊
第1分冊
略題<日本美術の歴史 飛鳥~鎌倉時代>
受付15.05.20 評価A
飛鳥時代は聖徳太子による仏教奨励やそれに伴う多くの大陸文化を受け入れたことが飛鳥地方を中心に広がっていったことでそれまで見られなかった大陸風の瓦葺の寺院建築が建ち並ぶようになっていった。これらの寺院建築やその内部に安置された仏像、絵画は朝鮮経由で渡ってきたものであり、絵画の特徴はきわめて痩せ型の人物像で全体の構図は有限的であり中国六朝時代の影響を受けているとされている。彫刻には法隆寺の本尊釈迦三尊像を製作した止利仏師の系統と法隆寺の百済観音系の二つの系統があり、止利派の仏像は厳格な面相、百済観音系は優しい表情に作られている。その止利派の製作した法隆寺の釈迦三尊像は正面観照性、衣文の左右対称性など七世紀前半の彫刻に共通する特色を持っている。
白鳳時代前半の彫刻とされている辛亥年銘観音像の宝珠をとる手つきや天衣の作りは飛鳥時代の名残りがあるが、表情については法隆寺の六観音像にも見られる童顔・童児系の像が多く作られたと言える。しかし、薬師寺東院堂の聖観音像を代表とする白鳳時代の後半の彫刻になると非常に思慮深い面相になり、鶴林寺の観音像は体の抑揚が実人に近くなり直立系の姿勢ではなく腰をひねるという動きを表現しており、これは初頭美術の影響を受けているとされている。そして薬師寺の薬師三尊像となるとそれまでの飛鳥時代の彫刻と共通する表現を見出すことは難しいぐらい成熟した様式を持っており、この時代の複雑な様式展開がうかがえる。また、数組の絵師の政策と考えられている高松塚古墳壁画と法隆寺の壁画は白鳳時代の絵画とされており、いずれも貴重な遺品である。
天平時代は国際色豊かな唐の文物を遣唐船がわが国に請来したことから、それまで受けていた唐の文化が奈良の都を中心に開花した時代であり、東大寺大仏殿のような大建築と正倉院のさまざまな宝物について、雄大性と国際性の二つの豊かな特徴がみられる時代と言える。この時代の彫刻は白鳳時代に比べ、さらに動きが出てきており、法隆寺五重塔の塑像群においては写実が一段と進み、人物の表情や布の表現など巧妙になっている。また、東大寺本尊の左右に立つ日光、月光菩薩の両像とも天平彫刻の特徴と言える優美な菩薩顔を示している。この時代の肖像彫刻の傑作としては頬骨が張り、目のつり上がった表情と肉付きの良い肩の表現が面影を彷彿とさせる行信像都像とわが国に受戒の制を伝えるために数度渡航に失敗したが、初志を貫徹したという意志の強さと暖かみが出ている鑑真和上像が挙げられる。
平安時代の前期にあたる弘仁・貞観時代には象徴的な世界観を具体化した曼荼羅を始め、明王のような非人間的な姿の尊像が多く作られた。神護寺の薬師如来像や新薬師寺の薬師如来像は簡素な木像彫刻であり、面相は天平時代の優美なところは無く近寄りがたい表情である。東寺講堂の五大明王像などの諸尊像は空海により設計された曼荼羅的表現をもつ群像で、わが国の最初期の密教彫刻として有名である。絵画では神護寺の了解曼荼羅があり、巨大な紫綾の地に金銀泥で諸尊を描いており、その緊密な構図と描写の的確さは驚くべきものである。この時代も唐の影響が強い遺品が多いが、次第に独自の様式へ成長していく過程がうかがえる。
平安時代後期にあたる藤原時代には美術全般にわたって、日本的な美術の典型が繰り出され、寝殿造、仮名書道、やまと絵といった日本人の感覚にあった美術が生まれてくる。藤原頼道が宇治の別荘を寺とした平等院鳳凰堂は極楽浄土をこの世に現出したような作りであり、藤原清衡により建立された中尊寺金色堂は螺鈿を施した華麗な阿弥陀堂として名高い。和洋様式を完成させた定朝の鳳凰堂本尊阿弥陀如来像は寄木造の典型で、数個の木を組み合わせて作られている。また、その定朝の様式を踏襲する仏像も作られ、仏師の院覚による法金剛院の阿弥陀像は体嗣の作りも衣文の表現も硬い感じを与える。やまと絵の典型的な遺品が源氏物語絵巻であり、詞書のあとにその内容を絵で表したもので男女は引目鍵鼻の類型的表情に表現されている。
鎌倉時代の彫刻はきわめて強い男性的なものが多く作成され、仏教の写実的な要素は宋朝美術の影響によりいっそう助長される結果となった。興福寺の世親像は仏像制作で有名な運慶の晩年の作であり人間の内面的な深さが充分に捉えられている。その運慶と共に鎌倉新様式の樹立に貢献した快慶は弥勒菩薩立像など優しい顔つきの像を多く制作している。また快慶と同じく仏師康慶の高弟の一人である定慶の力強い力士像の眼には玉眼を嵌入し、生きいきとした眼を表現している。この時代には復古的な風潮が強く、天平や平安時代の古典像を学びその模型像を制作しており、鎌倉大仏も阿弥陀如来の銅像で古来秀麗な仏として知られている。絵画では藤原隆信とその子供の信実らの似絵と呼ばれる即興的、印象把握的は肖像画が当時、貴族の間で流行したことを背景に源頼朝像や平清盛像のような肖像画がこの時代に初めて見られるようになった。
第2分冊
略題<日本美術の歴史 室町~近代、及び日本美術の特質>
受付15.05.20 評価A
室町時代の美術の特色は鎌倉時代に中国から移入された禅宗文化が室町幕府の庇護により、いわゆる五山文化として禅林と武家の間に普及、定着した点である。この時代の建築において最も注目すべきことは、平安時代に作られた寝殿造の邸宅建築が床、棚、書院を備えた書院造へ移行していくことである。鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣のような重層な楼閣建築もこの時代の文化の性格を象徴するものとして有名である。絵画は従来のやまと絵に代わり、宋から移入された漢画が時代の会が様式の主流をなすようになる。
桃山美術の特徴は戦乱の中で分散浪費されていた民族のエネルギーが信長、秀吉による全国統一の動きを契機として結集され、それがそのまま美術の飛躍的な発展と結びついた所にある。城郭建築、特に天守閣は桃山美術の花形であり、信長による安土城の内部七重の天守建設は従来の天守の形式を一変させた。他にも秀吉による大阪城、伏見城をはじめとする諸武将による天守建築が最高潮に達した時代でもあり、姫路城はこの最盛期の天守の傑作である。絵画の分野でめざましい発達をみせたのは障壁画、それも金碧障壁画といわれるもので、画材としては花鳥、風俗といった現実的なものが喜ばれた。そうした障壁画を創出する上で大きな役割を果たしたのが狩野永徳であり、聚光院の花鳥図襖絵の力動感みなぎる構図には明るい響きがこもっている。また天平二年、信長が上杉謙信に贈った洛中洛外図屏風は線密な描写によって、当時の京の活気あふれる有様を描き出したものである。十七世紀になると名古屋城の風俗障壁画、狩野派の狩野長信による花下遊楽図、狩野内膳による豊国祭図屏風などが制作され、戦国の争乱の泥沼から脱して平和の到来を喜ぶ民衆の表情が生き生きと描き出されている。また、この時代にはポルトガル人が渡来してきたこともあり、当時のキリシタンの西洋に対する強いあこがれを反映して、世界地図やヨーロッパの都市図を屏風に描いたものや、帝王騎馬図、洋人奏楽図といった西洋風俗画も描かれた。それらは日本美術とヨーロッパ美術との混血児ともいうべき特徴を示し、桃山文化の国際的性格を強く感じさせるものである。
江戸時代に入ると桃山風の豪華な書院造も幕府や諸大名の財政がしだいに苦しくなるにつれて、まったく衰えてしまう。江戸時代初期の絵画は豪華な桃山風建築が、まださかんだったこともあり、御用絵師の狩野派は障壁画の制作に忙しかった。狩野派の狩野永徳の孫にあたる探幽は江戸狩野、永徳の弟子にあたる山楽とその養子の山雪は京狩野と呼ばれており、探幽の作風は二条城大広間の巨松図のような永徳風の豪壮な表現から、名古屋城上洛殿襖絵のような墨の調子を生かした洒脱なものへ移っていった。山楽、山雪合作の天球院花鳥図襖絵は華麗な中にも盛りを過ぎたマンネリズムの傾向がみてとれ、江戸時代中期になるとその狩野派の画風はまったく形式的なものとなってしまう。そして江戸時代後期になるとさまざまな流派に属する画家、あるいは独立画家の活躍によって画壇は活況を呈していく。喜多川歌麿は婦人相学躰浮気相など大首絵の構図に女性の官能美を極限にまで追求した。役者絵では東州斎写楽によって鋭い個性的表現を展開して描かれた市川団十郎像がある。十九世紀に入ると葛飾北斎が風景版画の分野を開拓し、傑作として名高い富嶽三十六景や人間から妖怪に至るあらゆるものの描出に熱中した。また安藤広重は風景版画でも、親しみやすい詩情を込めた東海道五十三次や木曽街道六十九次で人気を集めた。
明治、大正時代は明治政府による西欧文化の移入が美術界にも影響を与え、次々に洋風建築が日本に入ってきた時代である。絵画では明治十一年にフェノロサが来朝し、日本の古画の優秀性を説いたことがきっかけとなって岡倉天心らが集まり、狩野芳崖の非母観音像、橋本雅邦の竜虎図のように新しい日本画の創造を目指した。そしてその生徒である横山大観、下村観山、菱田春草によって生々流転、岡倉天心像、黒き猫などの作品が描かれた。近代日本の洋画は高橋由一の鮭が明治初期に描かれ、その後フランスから帰朝した黒田清輝の湖畔、青木繁の海の幸のように西洋の模倣を離れた浪漫的な傾向をおびた画風が展開された。
日本美術は昔から中国、西洋諸国の文化や芸術に影響を受けながら展開してきたと言える。飛鳥時代から鎌倉時代にかけては大陸からの仏教の伝来に伴い、それが普及していくにつれて仏教文化に影響を受けた美術も普及していった。室町時代から江戸時代にかけてもヨーロッパ文化との新しい接触があり、その外国文化の普及、定着により国際的な美術作品が生まれた。明治維新以降の西欧文化の移入は、旧来の伝統を固守しようとする勢力と伝統を否定しようとする勢力の過激な争いにより、日本文化そのものの存亡をかける試練の時代であったが、西洋画に対する謙虚な探求の態度が日本の伝統絵画の中に新しい息吹を注ぐ原動力となった。諸外国の文化が移入し、それを受け入れ、新しい美術が発展してゆく形態こそが日本美術の特質であると言える。
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