文化史Ⅰ
第1分冊
第2分冊
第1分冊
略題<「選択集」の法然の念仏>
受付16.05.26 評価B
法然は京都政界第一の家柄である藤原家の九条兼実の依頼を受け、建久九年に浄土宗の根本的な宗典で独立宣言とも言える「選択本願念仏集」という書物を著した。法然は元々は比叡山で天台宗の修得を始め、そこで代表的な浄土信仰宣布者の恵心僧都源信の「往生要集」の濁世末代の目足という末世の人々の目となり足となる教えや頑魯の者という智慧の劣った人々の教えであるとした浄土教に関する経論によって浄土信仰と念仏行に導かれたのだが、その教えでも末法悪世と言われていた時代の最底辺で生きている人々を含めた全ての人を救うことができないと満足できなかった。そこで中国の善導の浄土教宣布の中心となっていた正しく浄土に往生する教えを記した浄土の三部経の一つである「観無量寿経」やその注釈書である「観無量寿経疏」を熱心に読み、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏行が全ての人々の救いとなると導かれ、その念仏の実践から信念を深めた末に天台宗の根本道場である比叡山を下りて京都の町で専修念仏行の実践から自らの宗教体験を深めることに努めた。そのような教えをするきっかけとなった善導については他の高僧の著作によらずに浄土の祖師の中から善導一人の著作を用いた理由として「答へて曰く、彼等の諸師、おのおの皆、浄土の章疏を造るといへども、しかも浄土をもつて宗とせず、ただ聖道をもつてその宗とす。故に彼等の諸師によらざるなり。善導和尚は偏に浄土をもつて宗とし、しかも聖道をもつて宗とせず。故に偏に善導一師によるなり。」(※1)と述べ、また師の導綽禅師ではなくその弟子の善導の著を用いた理由としても「善導和尚は、行三昧を発し力め、師の位に堪へたり。解行、凡にあらざること、まさにこれ暁らけし。いはんやまた時の人の諺に曰く、仏法東行してより已来、いまだ禅師のごとくの盛徳あらず。絶倫の誉、得て称すべからざるものか」(※2)と述べており、浄土門の最高権威と仰いでいる。
法然は「選択本願念仏集」の冒頭で「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為先」と称名念仏こそが選択の行業であるという念仏往生の宗義を標示し、自分の目で当時の社会の現実を見据え、一般民衆が何をできるかを真剣に考え、命あるものは全て仏の悟りを得る可能性をもっているにも関わらず、現実には苦しみに満ちた生活が展開されている矛盾を強く嘆くという考え方のもとに教理を展開したのであった。それは現代社会を生きなければならぬすべての平凡、愚鈍の人には寛大に、信仰ある人の生活は道徳的であるべきようにつとめることを願い、よき信仰者への精進努力を願っているのであると読み取れ、称名念仏を唯一の行として専修念仏を選択することを教えとして、それまでの選ばれた人にだけ開かれた聖道の仏教と完全に決別しようともしていたと思われる。
そして法然自身も「観無量寿経疏」を読んだ際に称名念仏を選択し行とすれば恐れることは無いと誤解して解釈したことで、淫、酒、肉を勧めても、悪人になっても良いと説きまわるような法然の主張の独自性をそのまま解釈をした行き過ぎの言動をする者が同行信者の中にいたようである。それは法然の遺言にあたる「一枚起請文」の中でも、例え万巻の経を読んでいても何も学問のない愚か者になってただひたすら念仏を唱えるように愛弟子に言い残したように専修念仏行をとにかく勧めていた。選択本願念仏集にも善導の著書からの引用として「一切の諸行を選捨して、ただ偏に念仏一行を選取して往生の本願とするや。答へて曰く、聖意測り難し、たやすく解することあたはず。」(※3)と、たやすくは理解できないが念仏は優れているものであり、その他の行為は劣っているとまで述べている。法然にとっては最初の誤解をしたことで徹底的に罪人、愚者などを含めた大衆の立場に降りて「南無阿弥陀仏」とひたすら唱えるように教えたことや、いつどこで誰でもできることを極楽へ往生するための唯一の方法なのとして工夫して分かりやすくいろいろなことに例えて広めていったことも全ての民衆にとって受け入れられやすかった要因であったといえる。
また浄土宗の教学では念仏は法然上人が選んだのではなく、阿弥陀仏が選択されたものであるとしており、その阿弥陀仏によって選択された本願の念仏の教えが法然の生き方や、浄土宗の教えに強く働いている。法然は念仏を得たときに、自分でそのまま山にこもって念仏していても良かったのであろうが、山を下りて念仏行を教え広めていったことは、そこで実際に町の人々の暮らしを見てもっと法然自身でも納得できる理由を探していたとも考えられる。念仏行の選択ということは例えば布施、観察、戒律、座禅や父母への孝養等の多くの行為を捨てたうえで選び出したという選択に意義を見いだした結果であるとしている。専修称名念仏の意義というものは、例えば堂塔を建立することや仏像を造ることが阿弥陀仏の本願の対象ならば、貧しい人々は望みが無いということになるし、また学問を修め才能豊かな人々が本願の対象となる場合にもそういう人ではない人の望みを絶つことになるとして、あらゆる人々が能力に関わらず平等に往生できるように困難なことではなく容易な行為である念仏を勧めて男女貴賎、行住坐臥の善し悪しに関わらず、また時と場所に関わらず称名念仏の行によって阿弥陀仏の本願にかなうとしたことにある。それは阿弥陀浄土以上の法悦を民衆と共に法然にも与えたであろうし、全ての人々を根底から救う仏教を求めていた法然上人の教えを現在でも世界の隅々まで伝わっていることは専修称名念仏の意義というものがやはり伝わっているのであろうと思われる。
引用文献一覧
※1「日本の名著五 法然」塚本善隆 編 1971年 中央公論社
(選択本願念仏集)16章 193頁
※2「日本の名著五 法然」塚本善隆 編 1971年 中央公論社
(選択本願念仏集)16章 194頁
※3「日本の名著五 法然」塚本善隆 編 1971年 中央公論社
(選択本願念仏集)3章 123頁
第2分冊
略題<「神皇正統記」の正統観>
受付16.05.31 評価B
「神皇正統記」は北畠親房が南北朝内乱期の一三三九年に常陸国小田城在陣中に執筆し、繰り返して君徳の大切さを説いている南朝の後村上天皇に献じた歴史書とされている、また新説として東国の武士である結城親朝に書き与えたものという中世史家松本新八郎氏の説もある。親房はその中で南朝人、北朝人、後世の人々を含めた深く学問を修めた知識を持っているような人ではない一般の人にとっても分かりやすいように正統という正しい皇位の伝わり方の歴史を説明しており、後村上天皇が正統であり君徳を備えた天子であることを論証している。またその際に鏡、玉、剣の三種の神器を持ち出しているのが特徴であり、三種の神器は鏡が正直、勾玉を慈悲、剣を智恵のそれぞれの象徴として、神器を受けつぐ者はこの三つの徳をそなえていなければならないとして、当時形成されつつあった神道説を援用している。この神器の説明方法は南朝の正統を主張するための根拠であるのみでなく、天皇は皇族のなかで真に君徳をそなえている人がなるものであり、君徳のない天皇は批判されなければならないと主張する天皇のあり方への厳しい批判でもあった。この神器のあるところに正統があるという論理は私が「神皇正統記」を読んでいても数多く読み取れるが、後鳥羽院のところには「先帝三種の神器あひぐせさせ給えし故に践祚の初の違例に侍しかど、法皇國の本主にて正統の位を傅まします」(※1)と先代の安徳天皇が神器を持ったまま海に落ちたため、神器の無い状態で天皇に即位したことについてごまかしながら問題ないこととしているようにも読み取れる。中世の代表的な歴史書である慈円の著書「愚管抄」には同じように安徳天皇と海に沈んだ神器を用いて、天皇にとって剣が必要なくなったのは代わりに武士が天皇の守護をするために進出してきたということを述べているが、親房はそれとは対照的に神器不滅説とも言われる古来変わることもない道徳的規範として神器を例に挙げている。
公家の精神が生きて動いているような親房のこうした「天皇はその政治を補佐する制度を重んじ、その正しい運営に意を用いなければならない」という思想から、天皇を補佐する公家の立場自身が大きくゆらぎはじめた鎌倉時代の後半において危険を最も強く感じとっており、天皇が最も慎重につとめなければならないのは補佐の臣の任用の仕方と臣下に対する公平な賞罰の執行として、自らすべてを決する独裁的な天皇を認めなかった。それは院政否定や後醍醐天皇の建武の政治は家格の常識や官位相当の関係を公然と無視するもので、公家も武家もすべて自分で掌握し、自己一身に権力を集中するかわり、人々を門地、家柄にかかわらず、大胆に登用しようとする後醍醐天皇への批判として「一には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君は垂拱してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本とす。二には國郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其理のままにす。三には功あるをば必賞し、罪あるをば必ず罰す」(※2)という政治に対する考えから、慈悲を基本として政治を遂行することが政道であるとしている。それは天皇を頂点とする公家社会の秩序を守り、すでに乱れているところはあるべき姿に帰したいという親房の願いが込められており、武士に対しては朝廷に仕えるべきもので、公家と対等の位置に立つことは絶対に認めなかったという公家に従属するものという視点を生涯崩さなかったということが言える。また有徳な天皇が神器を奉じて神器に表象される仁政を行ない、血脈正しく、学才あり職分と秩序を重んずる廷臣が補佐分掌し、武士はその下にあって忠を致し、農工商の人民はそれぞれの業に専念することで日本の優秀性と永続性が存するという日本の歴史を読み取ろうとしていたとの見方もでき、そうした主張の構成においても身分や家柄というものを重視している。
このような点を考えれば、親房の言わんとしている正統というものは「愚管抄」の述べている日本史の展開を辿りながら源氏将軍家の補佐の臣としての摂関家の位置を擁護する思想とは大きな違いは無いが、村上源氏の立場に立って「今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。」(※3)と南朝の後村上天皇までの正統の所以を論証し公家政治の復活を念願し続けた公家の立場の擁護を主眼としたものになっている。こうした後村上天皇に至る天皇の事績や歴史の推移から、南朝の正統性を強調し南朝の天子が正統であることを主張し、天皇のあり方と皇位の継承について君徳の無い天皇は長続きせず、その子孫は皇統を継承できないという考えを基本として政治批判を目的としているように思われる。南朝の天皇が正統の天皇で、公家や武士はすべてそれぞれの分において天皇を補佐すべきものであり、そうすることによって政治は正しい秩序を得ることができ日本の優秀性と永遠性が続いていくというあるべき姿が実現されるということが北畠親房の正統についての主張であろう。
引用文献一覧
※1「神皇正統記」岩佐正 校注 1975年 岩波書店 145頁
※2「神皇正統記」岩佐正 校注 1975年 岩波書店 173頁
※3「神皇正統記」岩佐正 校注 1975年 岩波書店 190頁
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