考古学
第1分冊
第2分冊
第1分冊
略題<地域と遺跡>
受付14.12.03 評価B
自分の居住する東京都立川市内からは弥生時代の遺跡だけは見つかっていないが、先土器時代から奈良、平安時代までの遺跡が約二十ヶ所で発見されている。現在も進行中である立川駅周辺の建物工事や市営住宅の改築に伴う発掘調査、多摩都市モノレールの拡張工事中に発掘されたそれらの遺跡は、大きく三つの時代に分ける事ができる。
一つ目は一万二千年前の旧石器時代末期から先土器時代までの遺跡で、立川市北部の砂川地区で多く発掘されている。ここでは石槍などの石器が多く見つかっており、それらの道具を使い、狩猟によって生活をしていたと考えられていた。しかしこれといった成果が得られない発掘調査の結果から、生活をしていた場所というよりは狩猟のための場として結論付けられており、これらの小高い丘の上や浅い谷など比較的水を得やすいという共通の条件の場所を獲物に合わせて移動していたと考えられる。
二つ目は縄文時代の遺跡で、立川市羽衣町の向郷遺跡からは竪穴式住居跡と平らな石を敷き詰めた敷石式住居跡が見つかっている。ここでは縄文土器、打製石器、骨角器、木器が数多く発掘されており、旧石器時代と縄文時代の複合遺跡として研究されている。また、発掘された石器の中には黒曜石を使った矢じりも複数発見されているのだが黒曜石はこの地域では存在しない事が分かっているため、最も近い産地は現在の長野県霧が峰付近であったことを考えると、当時何らかの交渉があったと推測できる。実際に市の調査として蛍光X線分析により産地の推定を行なった結果、諏訪や蓼科などの信州の内陸のものと箱根、伊豆といった太平洋岸の地域のものもあることが判明している。そしてここでの生活は礫群と呼ばれる焼け石のまとまりも見つかっている事から狩りや釣り、また木の実を取って調理して食べるという生活をしていたと考えられる。
三つ目は奈良、平安時代の遺跡で、立川市柴崎町あたりの下大和田遺跡からは竪穴住居と太い柱を持つ大型の掘立柱建物跡の合わせて六軒の建物跡が見つかっている。それらは建物構造に一定の規則が想定されることから、一般的な住宅では無く役所のような性格を持つ建物であったと考えられ、非常に重要な発見とされている。また出土したものの中には硯として使用していた転用硯と「忠」の文字が書かれている墨書土器と呼ばれているものもあり、この二つの出土品を関連付けるとある程度文字の意味を理解し、書くことができる人が存在していたと考えられる。
また、旧石器時代から奈良、平安時代までのすべての時代の住居跡が下大和田遺跡と隣接してはいるが様相が異なるものとして区別することになった大和田遺跡において発掘されている。ここでは総数約八千五百点もの旧石器時代の礫群から縄文土器、石器、土師器、須恵器、鉄製品が発掘されており、縄文時代の埋甕二基、調理施設と考えられている集石土坑二基、八世紀から九世紀の住居跡五件と同時代の掘立柱建物跡六棟が見つかっている。大和田遺跡付近の地形は多摩川を見下ろす段丘上であり、飲み水や食べ物が得やすいことと石器の元となる石が近くにあったことなどから昔から生活しやすい場所だったと思われる。なお、現在でも川に面した南側が開けており、日当たりが良く住み心地の良さそうな地域となっている。
平安時代以降の歴史的発見物に六面石幢がある。六面石幢とは立川市唯一の国宝で、秩父青石とも言われている緑泥片岩の幅四十二センチの版石六枚を六角の柱上に組み合わせ、上に笠石を乗せた高さ百六十六センチ程の石柱である。六面のうち四面には時国天王、多聞天王、広目天王、増長天王の四天王、残りの二面には密迹金剛、那羅延堅固の仁王が彫られている。本物は一三六一年の南北朝時代の高僧、物外和尚の弟子である性了によって建てられた今の立川市柴崎町にある普済寺にあり、寺の安泰と信徒の繁栄を願い造られたものとされている。普済寺では他に南北朝時代の貴重な木彫の彫刻で現在国の重要文化財となっている物外和尚坐像、市の指定文化財となっている釈迦牟尼坐像、そして死者の追善や生前の供養のための塔婆の一種で、鎌倉時代初期から室町時代後期に渡り建てられた板碑群が発見されている。
今回見学した立川市歴史民俗資料館は建物自体が江戸時代初めから約四百年そこに住んでいた屋敷の一部を文化財保護のためにと、昭和六十年に当時の家主であった故井上重雄氏から立川市教育委員会へ寄贈されたものである。中は立川の自然、歴史、民俗という三つのテーマに沿って展示と解説がなされ、先に述べた六面石幢や釈迦牟尼坐像のように実物が非公開となっているものは複製品を製作し、間近で見られるようになっている。縄文土器の一部分のみが発掘されたものは石膏で残りの部分を復元し、綺麗に縄模様まで再現し展示しているが、復元するのが難しいと思われる程の細かい欠片については山積みにしている。他には五千年前の勝坂式、五領ヶ台式、四千年前の加曽利式、三千五百年前の称名寺式土器、奈良、平安時代の土師器、須恵器も見事に修復されて展示している。
こうした大昔の生活の遺産に触れ、現在の立川は駅周辺を中心に市役所の移転工事をはじめ新しいビルの建設が進んでいるが、それによって歴史が埋もれてしまうことは避けなければならないと考える。そして多摩川の清流化のような昔の自然環境や他地域との交流の歴史が甦ってきて欲しいものである。
第2分冊
略題<ヒトの形質人類学的特徴について>
受付14.10.30 評価C
他の動物と違うヒトの大きな特徴は手足を大きく分化させた事が挙げられる。人類はそれまでは主に歩行目的であった前足を腕として自由に物を掴み、運ぶことができるようになるという独自な進化をするにつれ、多種多様な道具を使うようになり、脳の容量は増えていき、顔や歯は徐々に小さくなっていったと考えられる。直立する事によって視界を広げ、遠くまで見渡すことで周囲の状況を判断しやすく、危険から身を守る事に役立っただろう。また手や指を使う事で道具の作成と使用が可能になると、食物の獲得に関しては効率よく狩りができるように武器となる道具を改良し、取った食物を加工し保存しておくような方法も自然に考えられる脳を持つようになっただろう。
このような人類の進化はアウストラロピテクスと呼ばれる、約500万年から400万年前に現れ150万年前までアフリカの南部と東部で生活していたヒト科の最も古い祖先から始まったとされていたが、2002年にその人類発祥の地とされてきたアフリカ東部から西へ2500キロ離れたチャドで、約700万年前に猿人としての進化を始めた直後と思われるトゥーマイ猿人と名づけられた頭骨が見つかった。額は張り出し、脳の大きさはチンパンジーと同程度で類人猿に近いが、犬歯は短く類人猿ほど尖っていない比較的ヒトに近い特徴も併せ持っている。しかし頭以外の骨が見つかっていないため二足歩行していたかどうかは判断が付かない、いずれにせよ進化の系統図はまだ完成とは言えないようである。
今のところ直立二足歩行を行なった最古の生物とされているアウストラロピテクスは、アファレンシス、アフリカヌス、ガルヒ、ロブトゥス、ボイジイに脳の大きさや歯、顎の形によって分類される。類人猿から発生した類人初期段階のアファレンシスは、脳はチンパンジーより少し大きい程度で顎と犬歯が突き出し、厚いエナメル質の臼歯、平らな鼻骨縁という原始的特徴を持っていた。骨盤の骨の形からやや膝を曲げた前屈みで初めて二足歩行をしたが、道具を使用していた様子は見つかっていない。約300年前から250万年前のアフリカ南部で生活をしていたと思われるアフリカヌスもそれまでの猿人と脳の大きさは変わり無く、道具の使用もしていないが、犬歯は突き出していなかった。
猿人から原人への進化の過程とも言われているガルヒに関しては、腕や足の骨も見つかっており長さなどの比率は類人猿と人類とのちょうど中間で手も足も長い、この事からヒトは手が短くなる前にまず足が長くなったと考えられる。他の猿人に比べ大腿骨が長く、突き出した顔の特徴を持つ一方、歯は非常に大きく脳はそれほど発達していなかった。
260万年前には進化の過程で少なくとも2種類のヒトの仲間が登場した。1つはそのままアウストラロピテクスの道を歩んだ南アフリカのロブトゥスや東アフリカのボイジイで、顎の骨や臼歯はかなり大きく顎の筋肉と骨の接続面を広げるように頭部がトサカのようになっていた。これは強く噛む力が必要な食生活が要因だったと考えられる。しかし約150万年前に地球上から姿を消してしまい、人類の進化の途中で枝分かれし、絶滅していった者達であると考えられている。
もう1つはホモ属に進化した種類で、やがて現代人にまで進化する事になる。はっきりした事は分かっていないが200万年から150万年前頃にアフリカヌスやガルヒから進化したと言われている「器用な人」という意味のホモ・ハビリスは、石器をはじめとする道具の加工と使用を始めた。そして150万年前には脳が大きく顔や歯が小型のいわゆる原人と呼ばれるホモ・エレクトゥスに進化したと言われ、それまで居住していたアフリカの東部、南部からユーラシア大陸へ移動し、やがて中国の北京原人やインドネシアジャワ島のジャワ原人へ分類したとされている。ここから手先が器用になり技術の面が発達し、様々な石器や本格的な道具の製作が行われるようになった。また歴史上、非常に大きな進化としてこの頃に火を使用していた痕跡がアフリカの各地で確認されている。火を使うことを学習したとなるとこの頃が焼き肉の始まりになるのだろう、またその火で暖をとることやけものを遠ざけるのにも役立ったと思われる。ただ自由に火を起こす術はずっとあとのネアンデルタール人の発明とされているため、この頃の火種は自然に発生した山火事などから持ってきたのかもしれない。
約30万年前には旧人と呼ばれ、ホモ・エレクトゥスから「知性ある人」という意味のホモ・サピエンスに進化した。知性ある人という名前だけあって脳の大きさは現代人に近くなり、厳しい氷河期の中でも効率よく食料を得ることができる知恵を付け、死者に花を供えて弔う習慣も考えられたとされている。
このように直立二足歩行の能力を身に付けた事が原動力となり、ヒトは自由になった手や指先に神経を集中させ、次第に効率的で複雑な作業を考えるように変化していった。その結果の一つとして、ヒトの手の指に関しては拇指対向性という親指が他の4本の指と向かい合わせに接触させられる他の動物には無い機能を持つことになった。例えば身の回りの日常では小さなネジをドライバーで回すときに親指と人差し指、または中指を向かい合わせにしてドライバーを持つ手の形がそうである。
ヒトはやや膝を曲げた前屈みの姿勢で立ち上がり二足歩行を始め、徐々に足は長く、腕は短く、指は複雑で器用な動きができるように考え、脳を発達させてヒトと呼ばれる姿になっていったと言える。
参考文献
黒田末寿、片山一道、市川光雄 著 「人類の起源と進化」 有斐閣双書
埴原和郎 著 「人類の進化 試練と淘汰の道のり」 講談社
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