民俗学
第1分冊
第2分冊
第1分冊
略題<地域と民俗>
受付14.12.03 評価C
自分の居住している立川市には多摩川が流れている。昔は住民が清流と呼び、その水を飲料水、農業用水として利用し、物を運ぶときには水上をイカダで移動し、川からは砂利の採取も行なうなど生活や経済の流通、文化の交流などいろいろな役割を果たす川であっただろう。しかし、現在では自分でも電車などから何人か釣りをしている人を見かけることはあるが「多摩川の魚は食べられない」という汚い川のイメージを持っており、今回見学した立川市歴史民俗博物館にある漁の様子を撮った写真のような光景はとても想像できない。また、最初に述べたような川を中心として生活をしていたのはわずか50年ほど前までと聞き、近年の急速な都市化の影響を受け川は汚染され、埋め立てにより水量が減り、それに伴い魚の数が減少してきたのだろうと推測できる。
今ではもう資料でしか見られなくなった昔からの伝統的な漁法はいずれも川の状況と魚の習性を巧みに利用しており、漁師が専門の道具を用いた漁法もあれば、一般の人々でも行なうことができたものまで釣り、網や筌、鵜飼いなど細かく分けると100種類を超える漁法があったようである。中でも昭和の中頃まで行なわれていた代表的な漁法として、友釣り、はね網、瀬張り、寄せ網がある。
友釣りとは、アユの縄張りを持つ習性をうまく利用し、あらかじめ捕まえておいた一匹のアユをおとりアユとして縄張り周辺に近づけ、他のアユがおとりアユに攻撃するために近づいて来たところを、近くに仕掛けた針で釣り上げる漁法である。はね網とは、大人一人が両手で持てるぐらいの長さの一本の縄に植物を束ねた脅し具と呼ばれるものを取り付け、川上からそれを持った何人かの人間が一斉に寄せて行き、驚いた魚が水面から飛び上がったところを網で捕まえる漁法である。瀬張りとは、まず川幅いっぱいに稲ワラで作ったおかざりと言われるものを作る。それを水中に仕掛けると空気の細かい泡がワラにでき白銀色に光ってヒラヒラと動くので、驚いた魚は川岸に張られたヘヤと呼ばれる仕切り網のほうへ移動する、そして仕掛けておいたモジという筒に入るのを待つ漁法である。寄せ網とは、あらかじめ川の流れを網で仕切り、シラタという重りを付けた白地の布を使い、水中で魚を追い寄せると白い色と重りが川底に当たる音に驚き、仕掛けてあったザコドゥと呼ばれる大小さまざまな筒の方へ移動し、筒に入ったところを捕らえる漁法である。前に述べたように、こうした数々の漁法も魚の減少と共に途絶えてしまい、今では多くの残された漁具を市指定有形民俗文化財として保存する方向で取り組んでいる。
多摩川での漁業に加え、もう1つ昔からの立川を代表する生業として立川市砂川町には蚕影神社という蚕の神様を祀る神社が建てられているように、江戸時代中頃から昭和初期まで立川、砂川地区の農業の中心であった養蚕も挙げられる。それは幕末の貿易の関係から生糸の輸出が伸びた明治から大正時代にかけて最盛期を迎えた。また、蚕の餌となる桑の生産もさかんであり、さまざまな品種改良を重ね各地の養蚕地帯に出荷していた。その結果、砂川という地名が良い桑苗の生産地として全国に知れわたり、桑苗の生産量が全国一になったこともある。これはこの土地質が桑苗の生産に適していたことや優秀な農業技術者が多く育ったことによると思われる。今でも春から秋に各家の造りは「蚕室作り」と呼ばれるものに改造され、マユダマという養蚕と関係の深い小正月の年中行事は多くの家で続けられている。
また、同じ砂川地方では江戸時代末期から農家の副業として機織りがあり、「砂川太織り」と呼ばれるものが女性たちにさかんに織られていた。それは明治時代に村山地方の織物である「村山がすり」に影響を受け、徐々に織物業の生産の中心は移っていくことになったが、砂川では製糸工場を造り生糸の生産にあたる製糸業も行なわれていた。村山地方では道具の改良が進んだことによってますますさかんになり、副業として織物を生産する農家は明治20年の調査では地域の85%にあたる約500戸で行なわれていた。
しかし、年中行事のマユダマではない養蚕自体は昭和に入ると戦争や化学繊維の普及と共に衰退し、今ではわずか10軒ほどの家で行なわれているだけになり、同様に機織りもまだ生産はされているが当時ほどさかんではない。
こうした伝統的産業や自然環境に共通して言えることは、時代の流れなどを理由に見切りをつけることは簡単だが、逆に残し続けていくことは難しいということである。多摩川の例を挙げると少しでも昔のように多数の魚が泳ぐようにとサケの稚魚を放流することになった際には「どうせ放流しても汚いので帰って来られない考える」というもっともな意見も出ている。ただそのような意見が出る要因の一つは、人間が捨てなければ増えることは無かった空き缶などのゴミの問題なのである。35年前から毎年2回、多くの地域住民が参加し「クリーン多摩川運動」を展開し、その結果少しずつ清流に近づいているというのだが、まだまだ地域住民の協力と意識が必要であると思われる。
参考文献
「立川市のあゆみ」 立川市教育委員会 発行
「立川の歴史散歩」 立川市教育委員会 発行
第2分冊
略題<子供の遊び>
受付14.10.30 評価C
私は東北、秋田県の県庁所在地である秋田市で生まれ育ち、高校卒業まで過ごしていた。1983年までの幼稚園児やそれ以前の頃となると、家の中でテレビの真似をして2歳違いの兄と遊んでいた記憶や、近所の同じ歳ぐらいの友達と外で木登りや鬼ごっこで走り回り、転んで傷を作っていた記憶がある。また、春の暖かい日は家族で大きな公園へ出かけたり、近所を散歩したりとよく外へ連れて行ってもらっていた。そして冬には大量に降ってくる雪を食べようと口を開けて外を走ったり積もった雪で椅子を形作って座ってみたり、やはり北国だけあって雪遊びがメインであった。当時薪ストーブがあった家の中では、祖父や祖母から「桃太郎」等の昔話を聞かせてもらっていたが、必ず途中で眠ってしまい最後まで聞いたことは無かったはずである。
1984年に市内の小学校に入学してからは、それまでの母親の自転車の後ろに乗っていただけの幼稚園通いから自分の足で登下校するようになった。登校時は兄と一緒だったが、帰りは同じクラスの友達3人ぐらいでジャンケンで負けた人が次の電信柱まで全員のランドセルを持って行き、またジャンケンをすることや、空き缶を見つけるととりあえずみんなで順番に蹴り続けて帰っていた。
学校のクラス内では自然といくつかのグループができ、いつもだいたいその決まったメンバーで休み時間や放課後、また休みの日に集まって遊んでいた。夏の暑い時期には、よく近所の神社でゴムのボールとプラスチックのバットを使い7、8人集めて野球をやっていた。ルールとしていつも石や木をベースとしていたが、その形は参加人数によってダイヤモンドではなく、三角形に変更する時もあった。また神社の屋根を打球が越えたらホームランというその頃の力では無理だという事は全員承知の特別ルールもあった。そのような即席の話し合いで決めた特別ルールは他にもあったと思うが、忘れてしまった。また、安いゴムボールとはいえ当時は大事な遊び道具なので予想もしない方向へ打球が飛んでいった時には攻撃側、守備側関係なく全員で大捜索が始まった。その野球をやる際には、最初に行きつけの駄菓子屋でそれぞれお菓子やジュースを買ってから神社に集合するか、駄菓子屋に集合し10円や20円のお菓子を買って自転車で移動していた。駄菓子屋は集合場所としての他に野球の人数が集まらない時などは店のおじさんと話をするだけなのだが、なにかと本当によく通っていた。移動手段の自転車もこの頃に買ってもらい、雪の多い冬以外は練習して乗れるようになると一気に行動範囲が広がり、それまで行った事が無かった知らない道でもどんどん進んで遊びに出かけていた。これと言って目的は無いのだが自転車を漕いでいる事が楽しかったと言えるのかもしれない。
また、小学校では定期的に町内会の集まりがありサッカーなどをやっていたが、そこには同じ学年だけとは限らずリーダー的な6年生もいたため、まだ低学年の自分から見ればいじめられていたわけではないのだが少し怖かった、しかし兄も含めた集団の中にいて行動することが楽しくもあった。
そして小学校低学年の時には社会的ブームとなったファミリーコンピュータが登場する、その通称ファミコンは私の家でも親に頼み、次に祖父に頼んで1985年にやっと購入してもらい、学校帰りに何人かの友達を呼んだり、兄と一緒に親にやめるように怒られるまで遊んだ。友達でももっていなかった家は少なく、天気が悪く外で遊べない日曜や学校の帰りに友達の家に寄り道をして遊んだりしたが、やはりその家でも親に怒られていた。
普段の日と違って、お盆や正月期間の学校の長期休みには秋田県の沿岸部にある男鹿市と内陸部にある鷹巣町にある両親の実家へ行くことが多く、山側と海側の違いはあるが両方とも一般的に思い浮かべる田舎の風景そのものの自然の中で夏休みは山で虫取り、海や川で水遊びができ、夜は花火で遊んだ、冬休みにはもれなく雪が積もっているのでスキー、ソリ遊びをはじめとする雪遊びなど、意欲的に動き回ることが多かった。
夏のお盆の時期もそうだが、冬の正月のほうが従兄弟を含めた親戚が大勢集まる事が多く、その時の雪遊びは午前中に作業を開始して辺りがうっすらと暗くなりかけた頃に完成するというレベルの大きなかまくらを作り、中でお菓子や料理を作って食べ、最後は破壊して家に戻るといったことで1日を費やすこともあった。しかしかまくらを作ったと言っても、実際には小学校低学年ぐらいではほとんど力になれないため、兄や従兄弟が作っていた周りで雪玉を作って投げたり、子供にして見れば大きな雪ダルマを作っているかであった、さらに真っ先に飽きてしまい暖かい家の中に戻ってテレビを見ていることも多かった。
いろいろな人の育ってきた地域の習慣による違いや例えば冬に雪が多い地域と少ない地域という環境による違い、どんな人と関わってきたのかという身の回りの生活環境によっても経験できる事に差がある、また子供の頃の遊びは楽しかった事がほとんどだが危険な目にもあっており、夏休みの海水浴では海で溺れて助けてもらうという事を経験し、冬休みには寒さによって手の感覚が無くなり、足はしもやけになる事がしょっちゅうあった、幼稚園の頃には道路に飛び出して車にぶつかった事もあった。そういった経験が現在の人格の基本的な部分の話し方、考え方、クセなどの形成に関わっているのだろう。
前ページに戻る