自然科学史

第1分冊
第2分冊

第1分冊

略題<天動説から地動説へと革新的物質観の例>

受付14.10.30 評価B

世界中の多くの民族には、それぞれ自分達が住むこの世界というものはどのようなものであり、またどのようにしてできたかについてのさまざまな宇宙観がある。太陽と地球の関係については、二つの説が時代を経て提唱されてきた。一つは地球以外の太陽も惑星も恒星も静止した地球を中心に存在し、回っているという「天動説」、もう一つは太陽を中心として地球も他の惑星も回っているという「地動説」である。
古代ギリシアの哲学者、科学者であるアリストテレスは紀元前に円こそが神聖で完全な姿という哲学的な考えから「地球は宇宙の中心にあり、月、太陽、惑星、恒星はその周りを円軌道で回っている」という天動説を提唱した。
確かに惑星の動きを注意深く観測すると円運動しながら位置を変えていくように見えるが、この位置の変わり方は単純に一方向にのみ進むのではなく逆戻りするような奇妙な動きもすることがあり、それは文字通り「ふらふらと彷徨う」動きの意味と当時の天文学者達を「惑わす」動きの両方の意味で取れる「惑星」と言う言葉で表現しているとおりのものであっただろう。ともかく惑星が規則的でない運動をするというのは当時の研究者にしてみれば考えられないことで、あくまでも規則的な回転運動を組み合わせることによって惑星の不規則に見える運動を説明できるはずだと考えた。そこで「惑星は球の上に乗っており、その球はまた別の球にくっついている」というエウドクソスの同心球モデルによって、この球が組み合わさって運動しているということで対応したのだが、最初は4個ぐらいと考えられていた同心球は最終的には非常に複雑な計算が必要となる50個以上になっていった。さらにこのモデルには弱点があり、実際に惑星を観測していると逆行するときには明るさが大きくなる事実に関しては、このモデルでは惑星と地球との距離が一定で明るさの変化が説明できないのである。そこでもっと複雑に、観測データに合わせるために天球上に周転円や離心円と呼ばれる小円を導入し、最終的に天動説体系は惑星が円運動するのではなく、導円という仮想的な円が地球の周りを円運動すると考えられる導円周転モデルを採用することになった。それは導円の上に周転円が乗り、惑星は周転円の上に乗っているとして惑星は導円の運動に周転円の運動が合わさった複雑な運動を行うため、逆行する時というのは惑星が地球に近づいた時であると言え、この場合は明るさの変化もある程度説明できるだろうと結論づけた。
こうして、2世紀頃にギリシアの天文学者プトレマイオスによって「地球以外の太陽も惑星も恒星も地球を中心として回っている」という天動説が確立された。それはギリシアからアラビアに広まり、再びヨーロッパでその特徴である世界の中心に我々の住む地球があること、宇宙の大きさは有限であることなどを「神は人間のためにこの世界を造った」というキリスト教の人間中心思想を背景として西欧の思想界で1000年以上もの間、指示され続ける事となった。
そして14世紀頃の大航海中の船乗り達が船の位置を知るために天体の動きを頼りにする必要から天文学がさかんに研究されるようになった時代に、それまでの天動説に不合理を感じ「逆行のような惑星の不規則運動は地球も惑星も両方動いているとすれば説明できる」というコペルニクスの修正がきっかけとなり、それまでの天動説から地球のほうを自転、さらに公転をいう動きをさせる決断に至り地動説を提唱した。しかし、この説を述べた著書が出版されたのは死の直前であった。その天動説から地動説への「コペルニクス的転回」は、天文学上の問題にとどまらず哲学的にも我々人間や地球がこの世の中心的位置では無いのが真実であるということがあまりにも過激な考えだったのだろう。
物質間の変遷においても19世紀までニュートンによって慣性の法則、加速度の法則、作用・反作用の法則、万有引力の法則の4つの力学体系で宇宙のさまざまな現象を普遍的に説明できるとされていた。その完全無欠とまでされていたニュートン力学に対して、ドイツの物理学者アインシュタインは「光の運動については空間そのものの捉え方を変えなければ成り立たない」として、特殊相対性理論とそれを拡張させた一般相対性理論を提示した。特殊相対性理論は「時間や長さという概念は相対的なものであり、他にも質量も含め全てが相対的である、絶対不変なのは光速度だけである」ということを述べている。その特殊な等速直線運動に限定していた基準系を、一般的な加速度運動系や回転運動系に拡張した理論を一般相対性理論という。
先に述べたようにコペルニクスの時は著書が出版されるまでに時間が掛かったのに対して、アインシュタインが相対性理論を発見した時はそれまでのニュートンの法則をも包み込む究極の法則であると自信を持っていたようだ。その後、現代でも相対性理論については研究され続け、賛否両論の意見が出ているようだが実際に一般相対性理論は重力場の理論を明らかにし、重力波を予告し、中性子星の宿命や強い重力により光さえも脱出できないブラックホールに特異な性質を発見する事となった。
このような「コペルニクス的転回」は現代においても常識となっている身の回りの事に対して何の不思議も無いと考えるのではなく、少し見方を変えて調査、解析していく事で発見できるだろう。そのような歴史上の革新的な発見を人類誕生から現代までの進化の一つとすると、今までの長い人類の進化がここで終わってしまうとは考えにくいからである。

参考文献
八杉龍一 著 「図解 科学の歴史」 東京教学社
池内了 著 「宇宙論のすべて」 新書館


第2分冊

略題<生命観の変遷と技術>

受付14.10.30 評価A

昔からどんな人でも自分はやがて死によって消滅することへの恐怖心を持っており、そのことから同時に生命とは何かという問題についても研究対象とされてきた。そして研究者達の導き出した生命論は生気論と機械論という2つの主張が提唱された。生気論と機械論の違いとは生物における多種多様の部分が統一して単一の機能を遂行していることに対して、それらを物質だけでできている機械と同じ物とみなすか、それとも物質とは違った次元の実態や原理を持っていると説明するかによるものである。例えば進化の系統において、はるかにかけ離れている脊髄動物と軟体動物の持つ眼に関して基本的な部分がまったく同じという点について、機械論者は微小な変異が偶然のチャンスに助けられて無数に積み重ねられた結果とし、生気論者は偶然を越えた例えば「見よう」とする意欲のようなものが作用しない限り、まったく同じということは説明できないと主張するのである。
古代ギリシアの哲学者、科学者であるアリストテレスの生気論は、生命の原理を物質から切り離すという点や器官、組織などの形成を目的論の観点で解釈するという点でも、現代の機械論に対して正反対の立場に立っている。また、現代において同じ傾向の主張をしたのがフランスの哲学者ベルグソンであり、「創造的進化」という著書の中で「我々は昨日と今日でまったく同じ場所、状況でまったく同じ物を見たとしても同じ記憶として保存する事はあり得ず、この場合でも必ず昨日の記憶が付け加えられる。よって体験することは常に新鮮、独自のもので創造的である」と述べ、こうした意識が生命一般にも当てはまるとした。つまり意識が生命そのものとし、生物自体の中にあるその意識の能力が発現して進化、成長するということを主張したのである。
一方、16世紀以降の地球中心から太陽中心の天文学、また土木技術を含む技術面の発達に沿った物理学上の諸発見は、まだまだ人間の体内構造や生物について現在ほど分かっていない時代ではあったが、その時代に考えられたすべての生物の原理を物理的な法則の中で説明しようとする「生命機械論」という考え方の道を開くこととなっていった。そした17世紀にフランスの哲学者、数学者、科学者であるデカルトは動物を機械として見る「動物機械論」を唱え、18世紀にはラメトリが人間も同じであるとして「人間機械論」を唱えた。現代でも生物体を機械とした場合にまだ仕組みが明らかになっていない所も多いため生命のすべてを機械としてとらえる事への批判もある。しかし機械として見るのが妥当とする特性も多く備えていると機械論者は主張するのである。
デカルトは「清動脈は逆流しない」という17世紀に血液循環を照明したハーヴィの実験結果を元に、心臓はポンプとして血液を送り出し続けているとここではポンプという機械を用いている。他にも現代では生命の調節に例える機械の種類も豊富になってきており、電気コタツや電気冷蔵庫、また冷暖房器具に備わっている自動温度調節機能によって電流をオン・オフするネガティブフィードバックというマイナスの効果を及ぼして入力を加減する原理も。これは人間が体温調節に関して熱を発生する個々の酵素反応やその熱を放散する皮膚表面の制御の組み合わせ、また血糖値を調節する働きに例えることができる。
こうした生命観の変遷は光学顕微鏡や電子顕微鏡等の観察道具の開発、改良によって生物を分子、原子レベルまで研究できるようになり、それまでのメンデルによる「生物には特有な形質を持つ要素があり、代々継承される」という遺伝子に相当する概念を提唱したことや、モーガンによる「遺伝は細胞の染色体に存在する遺伝子によって起こる」という遺伝子説を提唱し、染色体上の相対位置を決定した染色体地図の証明をしていく事になっていった。まず、ペインターがショウジョウバエの唾液腺という器官を光学顕微鏡を用いて観察した際に、細胞が分裂するときに出現する巨大染色体を発見し、そのしま模様から遺伝子のある場所を特定した。次の段階は染色体の中に配列されている遺伝子の正体とは一体何であるのかが重要な課題となり、そこでアメリカのハーシーとチェイスは腸内のバクテリアと、その天敵であるT2と呼ばれるほぼ同量のDNAとタンパク質でできているバクテリオファージを用い、T2がバクテリア内に自分の子供世代を増殖させる、つまり遺伝したものをバクテリア内に作る性質からT2の増殖にはDNAだけが関与しており、遺伝子の物質的本体がDNAである事を発見した。そして、この太さ2ナノメートルのDNAの構造についてはアメリカのワトソンとイギリスのクリックがタンパク質と結合し、染色体を形成しており、ねじれた鎖のような二重らせん構造である事を発見した。さらに詳細な構造として二重らせんの片方の塩基配列が決まると、もう片方の配列も自動で決まるという、DNAの複製のメカニズムまではっきりさせた。これらの発見にはⅩ線解析写真を元にする必要があった。
すべての生命のつながりを与える物質的存在の中心が遺伝子であり、その構造をはっきりさせるためには光学顕微鏡、電子顕微鏡の開発、Ⅹ線の発見や写真技術など、人間の技術力の向上が不可欠であったと言える。

参考文献
八杉龍一 著 「図解 科学の歴史」 東京教学社
長野敬 著 「生命現象と調節」 裳華房
信州大学教養学部生命論講座編 「いま生命を語る」 共立出版

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